以前から血圧が高く、時々倒れていた母。「えっ、また…。もう、しょうがないな…。」と思い台所に行ったら、母が口から血を流して倒れていました。「救急車、救急車」と言う父に、まだこの時点でも、家族全員が「いつもの事…」と思っていて、割と冷静に救急車を呼び、救急隊員の方を誘導し、状況を説明し、救急車で近くの加茂病院に運ばれる母の後を、「もう…こんな夜中に…」と言う子供達を連れて車で追いかけ、処置室の前待ちました。「帰ってもイイ?」「もうすぐだから待ってなさい」と言う会話。「また、いつもの事だと思うけど・・・」と皆が思っていました。この時点では…。
15分ほどして脳外科の先生に呼ばれ、全員で病状の説明をという事で部屋に入り、先生がCTを前に言った第一声が「残念ですが…。」でした。「くも膜下出血で、今夜が峠です。持っても3日。奇跡が起きない限りは…」
娘はいきなり泣き出しました。息子もつられて泣き出し、父は下を向き、社長も下を向き…。そんな中、私一人だけは、冷静だったのを覚えています。
2年前に実の父をなくし、昨年実の母を亡くした私は、「死」というものに慣れてしまったせいでしょうか。それとも20年も一緒に暮らしながら、やはり私と母は「他人だった」という事だったのでしょうか。
母は病室に移され、そのまま私と社長が病室に残り、他の家族は一旦家に戻りました。体中にモニターを付けられて、意識も無いのに、ただ「生かされている」母。シーンと静まりかえり、モニターの音だけがする病室で、社長と二人で無言で母の顔を見ていたら、母がかわいそうで泣けてきました。
今思えば・・・、癌で亡くなった私の実の父も母も「私の人生、後悔ないよ。幸せだったよ。ありがとう」と言って死んでいきましたが、突然こんな事になってしまった母は、あまりにもかわいそうすぎる…。言いたい事もあっただろうし、したいこともあっただろうし・・・。
朝方明るくなってから父が病室に来て、親戚のおばさんたちも呼び、私は「家の片づけしよう」と思い、「死なないで…。」「なんでこんな事に…」と泣き叫ぶ人達を残し家に帰りました。
家に帰り、仏間の掃除をしていたら、母の日記を見つけました。母の日記と言うよりは、母と娘の交換日記でした。息子も時々書き加えていました。仕事中心の毎日で母と接する事の無かった私は、母の日記の存在にびっくりし、片づけの手を止めて日記を読みました。
母は2人の孫を「バカみたい」にかわいがってくれて、溢れるほどの愛情を注いでくれていました。仕事ばかりで、親に全くかまってもらえなかった2人の子供がいい子に育ってくれたのは、この人の愛情があったからだと言うことに初めて気が付きました。「私の働く姿を見てて良い子に育った」と勝手に思っていた自分のエゴの醜さを恥じました。
母の人生、孫達が本当におばあちゃんが大好きで、孫に囲まれながら最高に幸せだったんだなあ…ということが、日記のどのページからも感じられました。母の人生が、「幸せで、後悔ない人生」だと思った私は、涙が止まりませんでした。あらためて母に「ありがとう」の気持ちです。
母は突然倒れてしまい、皆にその事を伝えられませんでした。嫁としての私の役割は、この日記を読んで「私は幸せだったよ。みんなありがとう」の思いを少しでも多くの人に伝える事だと思い、通夜、葬儀の間に、少しでも多くの人に、この日記を読んでもらいました。
倒れてから24時間後、9月30日の夜中の1時30分、母は永眠し、明け方4時に家に帰って来ました。娘と息子は仏間の布団の上で横たわる母の両側で、自分で布団を持ってきて寝てました。次の日も。その次の日も。
3人の親を3年連続で亡くして思ったこと。「人は生かされているんだなあ…」と言うこと。この世には神様はちゃんといて、ちゃんと全てを知ってて、確かに3人とも死ぬには若すぎたけれど「一番この人のBESTな状態の時」に死に導いてくれたんだな…と言うこと。
母の死から4ヶ月経った今でも、周りの人から「寂しくなったね」「残念だったね」といわれますが、「母が本当に幸せだった事」を知っている私達家族は、確かに寂しくはなったけど、なんとか家族で支え合い、元気で頑張ってます。そして自分達にもやがて来るであろう「人生の最期」が、母のように「幸せな状態」で迎えられるように、頑張って生きていこうと思います。
生前、母と仲良くして頂いた方々には、本当にありがたく思います。このブログをかりてお礼を言わせていただきます。
・・・・・母は幸せな人生を全うしたと思います。ありがとうございました。・・・・・
先週、1日「ダウン」しました。頭がガンガン痛くて、動けばゲロッパ。トイレに行くときも「ゲロゲロ袋」を持って、途中で何回もモドシながら。命がけのトイレでした。ベットの上でゲロゲロ袋に顔を突っ込みながら「本当にこのまま死んでしまうかも・・・」と思いました。かすかな記憶の中で「死亡診断書の死因の欄が生理痛なんてカッコ悪いな・・・」なんて思ってました。
夕方5時頃、息子の慎悟くんの携帯に電話をしました。留守電に「お母さん死にそう」とメッセージを残し、そしたら折り返し電話があり、「しょうがないなあ・・・」と言って朝ごはんも昼ごはんも食べてない若奥に、食事(と言ってもコロッケ)を運んで来てくれました。
「はい、ここに寝て・・・」と言って、肩をマッサージしながら「おかあさん、働きすぎじゃあないの??」と言ってくれました。息子に「働きすぎ」と言われるのは、親としてとても嬉しい。彼の優しい気持ちが頭痛に効いて、少し元気になり、コロッケを3個、ペロッと食べました。その後娘もおにぎりを握ってきてくれて、肩から足裏から1時間もマッサージしてくれて、おかげ様で「地獄の闇」から這い上がりました。
11時過ぎて、社長がいい気分で帰宅。コンビニでくどい物をたくさん買ってきて、「そんなもの食えるか!!」です。娘が「お母さん大変なんだから、お父さんも肩マッサージしてあげてよ」と言ったら「こっちがマッサージして欲しいわ!!」と言って、酔っ払って寝てしまいました。
「お母さん、かわいそう・・・」と言う娘に・・・
ねえ、綾ちゃん・・・。お母さんはね、昔ある人にね、「子供たちがいい子でお父さんは『おたんちん』と、子供が『おたんちん』でお父さんはいい人なのでは、どちらがあなたならいい??」と言われ「子供がいい子の方がいい」と言ったら「じゃあ、あなたは、本当に幸せだね!!よかったね!!感謝しないとね!!」と言われてことがあるんだよ。何を隠そう・・・亡くなったおばあちゃん・・・。
娘と二人で、大笑いしました。
この前の火曜日、母のお墓に3日遅れのお彼岸のお参りに行ってきました。「子供たちは相変わらず優しくていい子で、社長は相変わらず・・・かな??」と報告してきました。母の「あなたは本当に幸せだね。よかったね、感謝しないとね!!」と言う声が聞こえてきました。
そして・・・見事復活!!「若奥は・・・やっぱりこうでなきゃ!!!」と思いました。しかし・・・若奥は「パワーが余って、元気良すぎ」か「死んでる」かどちらかで、「普通」が無いみたいです。まあ、「元気良すぎ」が「若奥」ですから!!!46才、まだまだ元気です!!!
「よっ、ねえちゃん」
ちょっと…私の立場も考えて…そんな格好でここに来ないでよ!!!。ここんところ「法事」でしか弟とは会ってなかったので、その時にはイッチョ前にスーツなんか着ているもんだから、改めて…「そうだった…油断してたけど…コイツはこういうヤツだった」ことに気づきました。
弟は母親の相続の為に、若奥の「相続放棄」の為の実印、サイン、印鑑証明…その他もろもろの書類を取りに来たのでした。
言われたとおりにサインをし、「よーし、これで財産相続放棄!!」と言って実印を押したら「俺も相続放棄だわ!!」と弟が言ったので、「えっ、それって…どういうこと??」
若奥の実家はもともと農家でした。そこにたまたまトヨタ自動車の「高岡工場」「下山工場」が誘致されて、若奥の実家は畑が売れ、田んぼがうれ、地価も上がり・・・知らない間に「なんちゃって資産家」でした。でもそのおかげで、おじいさんが亡くなった時の相続税が「どえらいこと」でした。その時の「学習」で、弟の3人いる息子のうち、長男の「けいくん」を父親と養子縁組し、今回「1代とばして相続」と言うことで母親の財産は、みんな「けいくん」が相続するんだそうです。家・屋敷もみんな。
若奥はびっくりしました。今どき男の子が3人いても、必ずしも長男が後を継ぐとは限らない時代。「長男が後をとるのが当たり前」と思っている弟夫婦。「あんな格好」して「あんな車」に乗っているのに、考え方は意外と古くてびっくりしました。「けいくんが一番よく仏壇お参りしてくれる。毎晩、般若心経を3回あげてくれるんだよ。後をとる子は違う」まあ、そこまで考えているんなら、「嫁に出た娘」が口を挟むことではないな…と思いました。
「うちの跡取りには口を挟もう」と思って、今日テストが終わったばかりの慎悟君にちょっかいをかけに「テストどうだった?」と聞きに行きました。彼は手鏡に向かって毛抜きで眉毛を抜きながら「普通。でも追試ではないと思うよ」と言い、「そういえば、頭髪検査は?」って聞いたら「ひかかった。再検査」だそうです。「またかい…っです。
ねえ、慎悟君…。うちには跡取りは、あなたしかいないんだから…。ちょっと!!!頼むよ!!!ほんとうに!!!
「僕、“流星”(リュウセイ)って言う名前が良かったのに!!なんで“慎悟”なの??」「流星って誰??」「歌舞伎町のNO1ホストの名前!!」(そんな事・・・知らんわ!!!)
昔々…若奥の母校「愛知教育大学付属高校」には2人の「モテモテボーイ」がいました。一人は「ナンパ」な「黒部くん」。今で言うと「キムタク」みたいな子でした。一浪して名古屋大学に入りましたが、浪人時代は「シトロエン」、大学に入ってからは「黒のポルシェ」に乗ってました。若奥の母校「金城学院大学」の坂に、ナンパ目的(に決まってる??)かどうかは知りませんが、黒のポルシェが停まっていたのを、よく見かけたものでした。で、もう一人の「モテモテボーイ」が「硬派」な「伊藤慎悟くん」。柔道部のキャプテンで「正統派な色男」でした。たしか…明治大学かどこかに進学したと思いますが。
「黒部くん派」か「伊藤慎ちゃん派」の2つに分れ、若奥は「伊藤慎ちゃん派」でした。だから密かに「伊藤」と言う苗字の社長と結婚が決まった時から、男の子が生まれたら、絶対「伊藤慎悟」と決めていました。(社長、今までナイショにしててスミマセン!!!)
この話を息子の「伊藤慎悟」にしたら「ふーん・・・」と無関心を装いながら、すぐに若奥の「高校の卒業アルバム」で「伊藤慎悟」とはどんな人物かをチェックしたみたいです。そりゃあ、気になりますよね…普通は・・・。
「おかあさん、伊藤慎悟ってヘンな顔じゃん・・・」「余計なお世話だわ、アンタよりずっとカッコイイわ!!」」と言っておきました。
おまけに「PTA会員名簿」でも「伊藤慎悟」を探したらしく・・・「ねえ、伊藤慎悟の家、“工場経営“だって。金持ちじゃん」だって。(愛教大付属高校の生徒名簿には親の職業の記入欄あり)
「で、店長、慎悟君は“黒部くん?”“伊藤慎ちゃん?”どっち??」加工部の生田さんが言いました。
「そりゃあ・・・モロ、“黒部くん”に決まってるじゃん!!!」
・・・・・・・・「一同、大笑い」・・・・・・・・・
「硬派な男になって欲しい・・・」という母の願いは、神様には全く届かなかったのでした。アーメン!!!
川平屋の会長「伊藤康司」(うちのおじいちゃん)は、豊田ロータリークラブに入っています。時々、本社・事務所と和ギャラリー(お店)を行き来する時に、「ロータリーのトートバック」に書類を入れて持ち運んでいます。若奥はこのバックを見ると、思い出す事があります。
若奥がまだ小学校3年生の頃でしょうか・・・。遠足に行く少し前に、母親に「ねえねえ、リュックサック買って・・・」とおねだりしていたその時、母親が奥の納戸から「茶色?黄土色?」のリュクを持ってきました。それにはデカデカと「ライオンズクラブ」のあの金のマークが・・・。若奥のおじいちゃんは三好農協の組合長をやっていてその関係でライオンズクラブに入っていて、家にこういう物があったのですが・・・。
「こんなヘンなの嫌だ!!!皆みたいに赤いのとかピンクとか、かわいいのが買って欲しい!!!」そう言った若奥に、母は言いました。「あんた、なに言っとるの!!!これはね、金持ちの子しか持てないリュックなんだよ!!!」その時若奥は思いました。「そうか・・・金持ちの子しか持てないんだ・・・」
遠足当日、やはり周りの友達はみんな、赤とかピンクとか、かわいいリュックを当たり前に持っていました。その中で若奥は一人だけ・・・「黄土色にライオンズマークのリュック」でした。「ミホちゃんのリュック、変ってるね」皆に言われましたが・・・。その時「そうだよ、これは金持ちの子しか持てないんだよ」と言ったかどうかは定かではありませんが・・・。得意げに持っていた記憶があります。(イヤな子供だね・・・)今思えば、若奥の育った家庭は・・・「ちびまるこちゃん家」みたいな家庭だったかも・・・です。
若奥は・・・といえば、子供達が「学校のセカンドバック買って」と言った時に、「これ持っていきなさい。これは金持ちの子しか持てないんだよ」などとは思いもつきませんでした。やはり・・・若奥の母はすごい人でした。「若奥のルーツはこの母だ!!!」と思います。でも若奥は未だに・・・母を追い越せない・・・。(と思っているのは・・・若奥だけ???もう追い越してる???)