平成19年9月28日。この日は娘の19歳の誕生日でした。伊藤家にしては珍しく、家族揃っての食事(スキヤキ)で(2週間ぶり?)、またまた珍しく11時まで家族で会話をし「じゃあ、おやすみ」と言ってそれぞれ部屋に戻り、「そろそろ寝ようかな・・・」と思っていた夜中の1時、息子の慎悟が「大変、大変、おばあちゃんが倒れた!!」と言って呼びに来ました。
以前から血圧が高く、時々倒れていた母。「えっ、また…。もう、しょうがないな…。」と思い台所に行ったら、母が口から血を流して倒れていました。「救急車、救急車」と言う父に、まだこの時点でも、家族全員が「いつもの事…」と思っていて、割と冷静に救急車を呼び、救急隊員の方を誘導し、状況を説明し、救急車で近くの加茂病院に運ばれる母の後を、「もう…こんな夜中に…」と言う子供達を連れて車で追いかけ、処置室の前待ちました。「帰ってもイイ?」「もうすぐだから待ってなさい」と言う会話。「また、いつもの事だと思うけど・・・」と皆が思っていました。この時点では…。
15分ほどして脳外科の先生に呼ばれ、全員で病状の説明をという事で部屋に入り、先生がCTを前に言った第一声が「残念ですが…。」でした。「くも膜下出血で、今夜が峠です。持っても3日。奇跡が起きない限りは…」
娘はいきなり泣き出しました。息子もつられて泣き出し、父は下を向き、社長も下を向き…。そんな中、私一人だけは、冷静だったのを覚えています。
2年前に実の父をなくし、昨年実の母を亡くした私は、「死」というものに慣れてしまったせいでしょうか。それとも20年も一緒に暮らしながら、やはり私と母は「他人だった」という事だったのでしょうか。
母は病室に移され、そのまま私と社長が病室に残り、他の家族は一旦家に戻りました。体中にモニターを付けられて、意識も無いのに、ただ「生かされている」母。シーンと静まりかえり、モニターの音だけがする病室で、社長と二人で無言で母の顔を見ていたら、母がかわいそうで泣けてきました。
今思えば・・・、癌で亡くなった私の実の父も母も「私の人生、後悔ないよ。幸せだったよ。ありがとう」と言って死んでいきましたが、突然こんな事になってしまった母は、あまりにもかわいそうすぎる…。言いたい事もあっただろうし、したいこともあっただろうし・・・。
朝方明るくなってから父が病室に来て、親戚のおばさんたちも呼び、私は「家の片づけしよう」と思い、「死なないで…。」「なんでこんな事に…」と泣き叫ぶ人達を残し家に帰りました。
家に帰り、仏間の掃除をしていたら、母の日記を見つけました。母の日記と言うよりは、母と娘の交換日記でした。息子も時々書き加えていました。仕事中心の毎日で母と接する事の無かった私は、母の日記の存在にびっくりし、片づけの手を止めて日記を読みました。
母は2人の孫を「バカみたい」にかわいがってくれて、溢れるほどの愛情を注いでくれていました。仕事ばかりで、親に全くかまってもらえなかった2人の子供がいい子に育ってくれたのは、この人の愛情があったからだと言うことに初めて気が付きました。「私の働く姿を見てて良い子に育った」と勝手に思っていた自分のエゴの醜さを恥じました。
母の人生、孫達が本当におばあちゃんが大好きで、孫に囲まれながら最高に幸せだったんだなあ…ということが、日記のどのページからも感じられました。母の人生が、「幸せで、後悔ない人生」だと思った私は、涙が止まりませんでした。あらためて母に「ありがとう」の気持ちです。
母は突然倒れてしまい、皆にその事を伝えられませんでした。嫁としての私の役割は、この日記を読んで「私は幸せだったよ。みんなありがとう」の思いを少しでも多くの人に伝える事だと思い、通夜、葬儀の間に、少しでも多くの人に、この日記を読んでもらいました。
倒れてから24時間後、9月30日の夜中の1時30分、母は永眠し、明け方4時に家に帰って来ました。娘と息子は仏間の布団の上で横たわる母の両側で、自分で布団を持ってきて寝てました。次の日も。その次の日も。
3人の親を3年連続で亡くして思ったこと。「人は生かされているんだなあ…」と言うこと。この世には神様はちゃんといて、ちゃんと全てを知ってて、確かに3人とも死ぬには若すぎたけれど「一番この人のBESTな状態の時」に死に導いてくれたんだな…と言うこと。
母の死から4ヶ月経った今でも、周りの人から「寂しくなったね」「残念だったね」といわれますが、「母が本当に幸せだった事」を知っている私達家族は、確かに寂しくはなったけど、なんとか家族で支え合い、元気で頑張ってます。そして自分達にもやがて来るであろう「人生の最期」が、母のように「幸せな状態」で迎えられるように、頑張って生きていこうと思います。
生前、母と仲良くして頂いた方々には、本当にありがたく思います。このブログをかりてお礼を言わせていただきます。
・・・・・母は幸せな人生を全うしたと思います。ありがとうございました。・・・・・
以前から血圧が高く、時々倒れていた母。「えっ、また…。もう、しょうがないな…。」と思い台所に行ったら、母が口から血を流して倒れていました。「救急車、救急車」と言う父に、まだこの時点でも、家族全員が「いつもの事…」と思っていて、割と冷静に救急車を呼び、救急隊員の方を誘導し、状況を説明し、救急車で近くの加茂病院に運ばれる母の後を、「もう…こんな夜中に…」と言う子供達を連れて車で追いかけ、処置室の前待ちました。「帰ってもイイ?」「もうすぐだから待ってなさい」と言う会話。「また、いつもの事だと思うけど・・・」と皆が思っていました。この時点では…。
15分ほどして脳外科の先生に呼ばれ、全員で病状の説明をという事で部屋に入り、先生がCTを前に言った第一声が「残念ですが…。」でした。「くも膜下出血で、今夜が峠です。持っても3日。奇跡が起きない限りは…」
娘はいきなり泣き出しました。息子もつられて泣き出し、父は下を向き、社長も下を向き…。そんな中、私一人だけは、冷静だったのを覚えています。
2年前に実の父をなくし、昨年実の母を亡くした私は、「死」というものに慣れてしまったせいでしょうか。それとも20年も一緒に暮らしながら、やはり私と母は「他人だった」という事だったのでしょうか。
母は病室に移され、そのまま私と社長が病室に残り、他の家族は一旦家に戻りました。体中にモニターを付けられて、意識も無いのに、ただ「生かされている」母。シーンと静まりかえり、モニターの音だけがする病室で、社長と二人で無言で母の顔を見ていたら、母がかわいそうで泣けてきました。
今思えば・・・、癌で亡くなった私の実の父も母も「私の人生、後悔ないよ。幸せだったよ。ありがとう」と言って死んでいきましたが、突然こんな事になってしまった母は、あまりにもかわいそうすぎる…。言いたい事もあっただろうし、したいこともあっただろうし・・・。
朝方明るくなってから父が病室に来て、親戚のおばさんたちも呼び、私は「家の片づけしよう」と思い、「死なないで…。」「なんでこんな事に…」と泣き叫ぶ人達を残し家に帰りました。
家に帰り、仏間の掃除をしていたら、母の日記を見つけました。母の日記と言うよりは、母と娘の交換日記でした。息子も時々書き加えていました。仕事中心の毎日で母と接する事の無かった私は、母の日記の存在にびっくりし、片づけの手を止めて日記を読みました。
母は2人の孫を「バカみたい」にかわいがってくれて、溢れるほどの愛情を注いでくれていました。仕事ばかりで、親に全くかまってもらえなかった2人の子供がいい子に育ってくれたのは、この人の愛情があったからだと言うことに初めて気が付きました。「私の働く姿を見てて良い子に育った」と勝手に思っていた自分のエゴの醜さを恥じました。
母の人生、孫達が本当におばあちゃんが大好きで、孫に囲まれながら最高に幸せだったんだなあ…ということが、日記のどのページからも感じられました。母の人生が、「幸せで、後悔ない人生」だと思った私は、涙が止まりませんでした。あらためて母に「ありがとう」の気持ちです。
母は突然倒れてしまい、皆にその事を伝えられませんでした。嫁としての私の役割は、この日記を読んで「私は幸せだったよ。みんなありがとう」の思いを少しでも多くの人に伝える事だと思い、通夜、葬儀の間に、少しでも多くの人に、この日記を読んでもらいました。
倒れてから24時間後、9月30日の夜中の1時30分、母は永眠し、明け方4時に家に帰って来ました。娘と息子は仏間の布団の上で横たわる母の両側で、自分で布団を持ってきて寝てました。次の日も。その次の日も。
3人の親を3年連続で亡くして思ったこと。「人は生かされているんだなあ…」と言うこと。この世には神様はちゃんといて、ちゃんと全てを知ってて、確かに3人とも死ぬには若すぎたけれど「一番この人のBESTな状態の時」に死に導いてくれたんだな…と言うこと。
母の死から4ヶ月経った今でも、周りの人から「寂しくなったね」「残念だったね」といわれますが、「母が本当に幸せだった事」を知っている私達家族は、確かに寂しくはなったけど、なんとか家族で支え合い、元気で頑張ってます。そして自分達にもやがて来るであろう「人生の最期」が、母のように「幸せな状態」で迎えられるように、頑張って生きていこうと思います。
生前、母と仲良くして頂いた方々には、本当にありがたく思います。このブログをかりてお礼を言わせていただきます。
・・・・・母は幸せな人生を全うしたと思います。ありがとうございました。・・・・・
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