夏の暑さがまだまだ厳しい折、皆様お元気でお過ごしですか?
さてこの度、わが娘綾花が家元より名取を許されまして、九月二一日、「花柳千登輔会」におきまして、名披露をさせて頂く事になりました。
綾花は八歳から千登輔師匠のもとで踊りを習い始めました。「一人で通えるようになってから」との事で八歳という少し遅いスタートでしたが、自分でお稽古着の用意をし、自転車で喜多町のお稽古場に行き、自分で着物を着、片づけ、宿題も稽古場でし、とても大変だったとは思いますが、なんとか今日まで続けてきてくれました。
母親らしいしつけがしてやれなかった私でしたが、千登輔師匠のもとに、礼儀正しく挨拶がきちっと出来る娘に、また舞台での経験で、芯が強く度胸のある娘に育ちました。また昨日、発表会のポスターを店内に貼りながら「ねえお母さん、私って本当に幸せだよね。みんなに感謝しなきゃね。」と、「感謝の心が持てる娘」に育ってくました。千登輔師匠に、また綾花が踊りを続けられた事に、本当に感謝しております。
娘は昨年に川平屋の母を、一昨年に私の実家の母をと、この二年間で今回の舞台をとても楽しみにしていた二人の祖母を亡くしました。今回踊る「鷺娘」は、彼女が二年前に名取を許された時に、癌で闘病中だった実家の母が「綾花ちゃんには名披露には鷺娘を踊って欲しいな。おばあちゃんの夢だな」と、まるで遺言の様に言っていた曲です。今回この曲を踊るご縁をいただき、きっと綾花は踊っている間中、二人の亡き祖母の事を思い、また彼女達に見守られながら踊るんだなと思います。二人の母を亡くし、しかし「彼女達は人生を充分に全うし、少し早い人生の終りだったけどこれで良かったんだ…」と思う私ですが、この度の綾花の舞台を前にし、「本当は母たちに見て欲しかった」と思うと悔やまれてなりません。
今回は、母が亡き後、力を落としていた父・康司が、綾花の為にと、二人で「松の緑」を踊ります。孫との踊りを励みに、毎日本当に楽しそうにお稽古をしています。くしくも発表会の九月二一日は、亡き母欣子の一周忌の前で、父と娘の二人での踊りは、今回綾花の晴れの姿を楽しみにしていた母への、最高の供養ではないかと思います。
お客様には、もし時間が許しましたら、ぜひ会に足を運んで頂けたらと思います。娘の踊りを通しまして母たちの事を思い出して頂ければ幸いでございます。
時節柄くれぐれもご自愛のほどお祈り申し上げます。
平成20年盛夏 伊藤美保子
・・・以上、母・伊藤美保子よりの手紙です。
9月21日(日)、豊田市文化会館で、踊りの発表会があります。
皆さん、ぜひ見にきてくださいませ。
プログラムが出来た日、夜仏壇をお参りしたら、娘がお供えしたプログラムが・・・。
大好きだったおばあちゃんに見守られながら、頑張って踊ってくださいね。
母より・・・。
母が倒れて一夜明け、いよいよ母の死が現実になりつつある時・・・。
私は何が何でも「娘を大切に育ててくれた母への恩返し」と思い、娘の綾花に「伊藤家の家紋」の入った喪服を「絶対に着せよう」と思いました。十三参りの時に白生地から染め、紋も入れ、「19の厄払いに仕立てよう」と以前から決めていた喪服を、皮肉な事に19歳になったその日に仕立てることになりました。神様は、全てを知っていたとしか思えませんでした。
社長に「母の事は社員には絶対言うな」と言われていましたが、加工部の生田さんにだけは事情を説明し、2日間しかない、メチャクチャ無理を言っていることは重々承知でしたが、「生田さん・・・ゴメン…なんとかお願い・・・」「わかった。大奥さんの為に何とかするからね。任せて!!」
その喪服は、通夜の夜に、無事仕立て上がってきました。きっと仕立て屋さんは、徹夜して縫ってくれたと思います。「私が大奥さんにしてあげられるのは、こういう事くらいだから・・・」そう言って仕立ててくれた仕立て屋さん、本当にありがとうございました。
通夜には、私は実家の母の墨色の喪服を、娘には私が嫁入りに持ってきた紫の色無地を着せました。そして、家族しか知らない事ですが、棺の中の母にも、母がつい最近までよく気に入って着ていた鶯色の色無地を着せてあげました。葬儀屋さんが「本当にいいんですか?一緒に燃やしちゃいますよ」と何度も言いましたが、今日まで呉服屋の奥さんとして頑張ってお店を守った母。そんな母の最期には、どんな高価な着物を着せてあげても惜しいとは思いませんでした。それよりも、母の着物、私の着物、娘の着物と、3人とも「横モッコウの紋」(私の実家も偶然同じ家紋でした)が入っている着物を3人が着ている事で、「美保子さん、あなたは喪主の妻だから、泣いてないで頑張りなさい」母の声が聞こえてくるようでした。
常々、お客様には、「背中の家紋は、ご先祖様が守ってくれている」と偉そうに言っていますが、この時は本当に母に、また伊藤家の先祖に守られていると言う気がしました。そして、「これから私がこの家を守っていくんだ・・・」という気持ち、快いプレッシャーを感じました。
今回、通夜・葬儀と、社員達は受付け・案内係・社長の秘書・・・と、本当によく手伝ってくれました。しかし私が何よりうれしかった事、私が世の中全てに自慢できる事。
別にお願いしたわけでもないのに、社員全員が「色無地に黒の帯」という姿で参列してくれた事でした。受付で14名の着物を着た社員が立ち,お客様をお迎えし。ほとんどの弔問の方が父・社長の公職の関係で参列してくださっていて、きっと母のことなんて何も知らない方たちだと思いますが、でもそんな人達にも「故人はすごい人だったんだ」と感じて頂けるような、社員の「凛とした姿」でした。最後に、皆揃って焼香をしている姿、母の遺影に手を合わせている姿は母にはしっかり見えていて、本当に喜んでくれていると思いました。
後日、通夜・葬儀に参列頂いた方の何名かに「さすがだね・・・」「こんな着の人が多い葬儀は、最近見た事無い・・・」というお言葉を頂きました。「お母さんはいい社員に囲まれ、幸せだったね」 社員には感謝の気持ちでいっぱいです。また、葬儀を通じて、社員同士の絆が深まった様な気がします。母がそうさせてくれたのだと思っています。
そして・・・葬儀には「女優・中村玉緒」という花が届いていました。玉緒さんから弔電も頂きました。これは「やらせ」ではなく、母と玉緒さんはつい先日も会って親しく話をし、またの再会を楽しみにしていた仲でした。玉緒さんも、母の死にとても驚き、悲しんでくださったそうです。今でも、仏壇の前には、母と玉緒さんの2ショットの写真が飾ってあります。2人とも本当に楽しそうに微笑んでいます。
母の人生は、着物で始まり着物で終りました。私もまだまだこれからですが・・・「着物が全ての人生」に出来るよう、母をお手本にし、毎日を頑張りたいと思います。
以前から血圧が高く、時々倒れていた母。「えっ、また…。もう、しょうがないな…。」と思い台所に行ったら、母が口から血を流して倒れていました。「救急車、救急車」と言う父に、まだこの時点でも、家族全員が「いつもの事…」と思っていて、割と冷静に救急車を呼び、救急隊員の方を誘導し、状況を説明し、救急車で近くの加茂病院に運ばれる母の後を、「もう…こんな夜中に…」と言う子供達を連れて車で追いかけ、処置室の前待ちました。「帰ってもイイ?」「もうすぐだから待ってなさい」と言う会話。「また、いつもの事だと思うけど・・・」と皆が思っていました。この時点では…。
15分ほどして脳外科の先生に呼ばれ、全員で病状の説明をという事で部屋に入り、先生がCTを前に言った第一声が「残念ですが…。」でした。「くも膜下出血で、今夜が峠です。持っても3日。奇跡が起きない限りは…」
娘はいきなり泣き出しました。息子もつられて泣き出し、父は下を向き、社長も下を向き…。そんな中、私一人だけは、冷静だったのを覚えています。
2年前に実の父をなくし、昨年実の母を亡くした私は、「死」というものに慣れてしまったせいでしょうか。それとも20年も一緒に暮らしながら、やはり私と母は「他人だった」という事だったのでしょうか。
母は病室に移され、そのまま私と社長が病室に残り、他の家族は一旦家に戻りました。体中にモニターを付けられて、意識も無いのに、ただ「生かされている」母。シーンと静まりかえり、モニターの音だけがする病室で、社長と二人で無言で母の顔を見ていたら、母がかわいそうで泣けてきました。
今思えば・・・、癌で亡くなった私の実の父も母も「私の人生、後悔ないよ。幸せだったよ。ありがとう」と言って死んでいきましたが、突然こんな事になってしまった母は、あまりにもかわいそうすぎる…。言いたい事もあっただろうし、したいこともあっただろうし・・・。
朝方明るくなってから父が病室に来て、親戚のおばさんたちも呼び、私は「家の片づけしよう」と思い、「死なないで…。」「なんでこんな事に…」と泣き叫ぶ人達を残し家に帰りました。
家に帰り、仏間の掃除をしていたら、母の日記を見つけました。母の日記と言うよりは、母と娘の交換日記でした。息子も時々書き加えていました。仕事中心の毎日で母と接する事の無かった私は、母の日記の存在にびっくりし、片づけの手を止めて日記を読みました。
母は2人の孫を「バカみたい」にかわいがってくれて、溢れるほどの愛情を注いでくれていました。仕事ばかりで、親に全くかまってもらえなかった2人の子供がいい子に育ってくれたのは、この人の愛情があったからだと言うことに初めて気が付きました。「私の働く姿を見てて良い子に育った」と勝手に思っていた自分のエゴの醜さを恥じました。
母の人生、孫達が本当におばあちゃんが大好きで、孫に囲まれながら最高に幸せだったんだなあ…ということが、日記のどのページからも感じられました。母の人生が、「幸せで、後悔ない人生」だと思った私は、涙が止まりませんでした。あらためて母に「ありがとう」の気持ちです。
母は突然倒れてしまい、皆にその事を伝えられませんでした。嫁としての私の役割は、この日記を読んで「私は幸せだったよ。みんなありがとう」の思いを少しでも多くの人に伝える事だと思い、通夜、葬儀の間に、少しでも多くの人に、この日記を読んでもらいました。
倒れてから24時間後、9月30日の夜中の1時30分、母は永眠し、明け方4時に家に帰って来ました。娘と息子は仏間の布団の上で横たわる母の両側で、自分で布団を持ってきて寝てました。次の日も。その次の日も。
3人の親を3年連続で亡くして思ったこと。「人は生かされているんだなあ…」と言うこと。この世には神様はちゃんといて、ちゃんと全てを知ってて、確かに3人とも死ぬには若すぎたけれど「一番この人のBESTな状態の時」に死に導いてくれたんだな…と言うこと。
母の死から4ヶ月経った今でも、周りの人から「寂しくなったね」「残念だったね」といわれますが、「母が本当に幸せだった事」を知っている私達家族は、確かに寂しくはなったけど、なんとか家族で支え合い、元気で頑張ってます。そして自分達にもやがて来るであろう「人生の最期」が、母のように「幸せな状態」で迎えられるように、頑張って生きていこうと思います。
生前、母と仲良くして頂いた方々には、本当にありがたく思います。このブログをかりてお礼を言わせていただきます。
・・・・・母は幸せな人生を全うしたと思います。ありがとうございました。・・・・・
今、夜中に、思いついたまま、ブログ書いてます。
川平屋の母が突然「くも膜下出血」で亡くなってから、昨日、スタッフの皆様の協力のもと成人式を無事終えるまで、何がなんだかわからない毎日、ただただ今日まで突っ走ってきました。。
本日、1月13日,豊田市の成人式、川平屋では300名のお客様のヘアーメイク・着付けをお世話させていただき、成人式会場に送り出しました。
今年は何事もなく、無事終了し、たくさんのお客様から「ありがとう」の言葉を頂き・・・若奥にとって「一年で一番忙しい日」ですが「一年で一番充実し感動をいただいた日」でした。
正月前(12月17日)から本日まで休みなしで27日間無休で働きました。「もういい加減にいやだ!!仕事なんかしたくない!!」と思った時期も正直ありましたが、本日のお客様からの「ありがとう」で何処かに行ってしまいました。「仕事のストレス・疲労」を吹っ飛ばすのは「仕事の達成感」だなーとつくづく感じています。
今、目覚まし時計が突然鳴って、びっくりしました。2時20分。そう言えば…昨日はこの時間に起きていたんだ…。さすがに今日は「真剣に眠い」のと「ホッとして気が抜けた」のとで、夕方食事もせずに7時から12時まで、こたつで寝てしまいました。途中、寝てて気付かなかったけど、社長から「寿司でも買っていこうか?」のメールが入ってました。
成人式の着付けを通して感じたこと。スタッフ(社員・着付けの手伝いの方・美容師さん・メイクの方)皆さんの協力がないと、決して成功しなかったんだ…ということ。ご協力いただいた皆様、川平屋社員の皆様、本当にありがとうございました。この場をお借りしてお礼をさせていただきたいとおもいます。
ブログをお休みしていた間に・・・いろいろなことが起こり、「ネタ」がいっぱいです。お楽しみに!!!